阪神淡路大震災から 30 年
1995 年(平成 7 年)1 月 17 日午前 5 時 46 分頃、淡路島北東部を震源とするマグニチュード 7.3 の地震が発生しました。
最大震度 7 を観測し、亡くなった方は 6,400 名以上、住宅被害は全壊と半壊を合わせて 24万棟以上という大きな被害をもたらしました。
私自身も大阪の実家にて被災し、直接の被害は少ないものの、物流が止まり、通信が機能しなくなるなど、日常が機能停止することを 10 代で経験し、多くの学びを得ました。いまもその早朝の街の姿が忘れられません。
また東日本大震災では、キャビンアテンダントとして乗務していた機内で被災しました。その日は国際線に乗務しており、日本と海外を日帰りする中で見た、着陸前の暗い関東圏―羽田空港の異様さを忘れることができません。
阪神淡路大震災から 30 年が経過し、その後も我が国では、東日本大震災や熊本地震、北海道胆振東部地震など、数々の震災と向き合い、試練を乗り越えてきました。
熊本地震では祖母と母が被災しました。特に祖母は独居であったため、避難所での生活を余儀なくされました。熊本地震では、被災で亡くなった方の4倍にもあたる方が関連死で亡くなられるなど、「震災を経ても、“生き延びた”と安堵できない」ことを痛感しました。
そして、2024 年(令和 6 年)1 月 1 日午後 4 時 10 分頃に、能登地方を震源とするマグニチュード 7.6、最大震度 7 の地震が発生し、240 名以上の尊い命が失われました。
災害発生時には、自助、共助、公助が大切となり、阪神淡路大震災から 30 年が経った現代では、様々な改善もされています。
しかし、ニュースに映し出された避難所の光景は、30 年前と変わらず、多くの方が寒いであろう体育館に雑魚寝をし、幼い子供を抱えた女性たちが「全国からの支援に支えられました」とインタビューの答える映像を目の当たりにし、より良い未来のために、何かお役に立てないだろうかという思いを強くしました。
「空のチーム」の姿を防災・減災の参考に
能登半島沖地震が発生した翌日の 1 月 2 日午後 5 時 47 分頃、東京国際空港(羽田空港)のC 滑走路において、海上保安庁機と日本航空(JAL)機が衝突する事故が発生しました。
この海上保安庁機は、前日に能登半島で発生した地震に対する支援物資を新潟空港へ輸送する任務中でしたが、5 名の海上保安官が命を落としました。
一方で、JAL 機に搭乗していた 379 名の乗員・乗客の全員を救出できたことは、海外メディアから「奇跡」との賞賛を受けました。
公表された運輸安全委員会の『経過報告書』では、「非常脱出において重大な人的被害が発生しなかったことに関与した可能性がある事項」が記載されており、空の世界が大切にしている「自ら考え、自ら決断すること(自考自決)」が深く関与していたことが見えてきます。
この「自考自決」ができるようになるために、様々な訓練で準備をし、現場での経験を積み重ねながら、その精度を高めているのが、航空業界です。そして、「想定外が起こることを想定する」のも航空業界の特徴です。
災害が発生した際には、「事前に準備したことだけ」では対応できないこともあり得ます。そのような時にでも、「行動できる人」を育成することも、私たちが目指す法人の姿です。
この時に参考になるのが、航空業界が大切にしてきた「チーム・リソース・マネジメント(TRM)」です。